到達地点
私達にとって信仰は何故必要なのか?また信仰の本当の目的は何か?一般的に何故信仰しているのか?と質問すると幸せになりたいから、と答える人が多いですが、真の幸せとは何ですか?と聞かれるとハッキリと答えられない人がほとんどです。真の幸せではなく、ただ幸せとは何?と聞かれると、少し答えやすく自分の愛する人と結婚し、理想の家を建て家族を増やし、何時も健康で旅行へ行きたい時は行き、寝たい時はゴロゴロし観劇に行き、美味しい物を食べ、素敵な服や装飾品で身を飾り、毎日を優雅に暮らす。
この様に誰でも自分がしたい事がその時々に出来たら幸せを感じます。もし一生こんな暮らしが出来たとしたら、この上ない幸せを感じるかもしれませんが、これが真の幸せか?と聞かれるとハッキリ返答出来ないかもしれません。もしこれが真の幸せならば、お釈迦様はお生まれになった時から既に何不自由のない環境だったのに毎日幸せだと思わなかったのです。もし私達が考えている事柄が真の幸せならば、お釈迦様も出家して辛い修行をなされなくても良かったのではないかと思います。それを思うと私達が幸せだ、と思っている事は表面だけの幸せでしかないと考えられます。私達の究極の幸せは、悟りを開き輪廻転生の輪から抜け出る事なのです。それは強制的に生と死を繰り返している事から離れ、自分の意思で生まれたい時に生まれ、死にたい時に死を迎える。これが真の幸せだと言えるのです。そうは言っても簡単に誰でも悟りを開く事は困難です。
今の段階で一番自覚するべき事は、自分達が求めている幸せは、ただ表面だけの幸せで、真の幸せではないのだと言う事です。今世でその事だけでも潜在意識に焼き付けておくと、今度生れた時は偽の幸せを求めてあくせくしなくて済むし、そんな人を見ても羨ましく思わずに暮らせます。その考えに到達する迄の時間と労力の無駄を省く事が出来ます。真の幸せである悟りを得るにはどの様にすれば良いか?
聖法院の御神仏は、人生の中で色々欲しい物があるが、それを我慢しなさいとは言われません。求める事は良いが、まず自分の手の届く範囲から求めなさい。次にそれらを一つずつ手に入れる努力をしなさい。これ以上努力を重ねても到底手に入れる事は無理であろうと自分自身で感じたら、その物事は今世では自分の枡に入っていない物事だと諦める事が肝心です。努力せずただ求めるだけでは一生欲しい欲しいと思うだけで人生が無駄に終わります。しかしただ努力するのではなく、自分が欲しい物が本当に自分にとって大切なものなのか、どうしても必要かを考えながら努力する事が肝心です。努力を重ね欲しい物を手に入れた時、やがて求める物が無くなれば、それが悟りへの第一歩となると説かれました。 合掌