お釈迦様生誕、施食会
今年も春の大祭を無事に迎えられたことを心から感謝致します。施食会(せじきえ)は、一般的には施餓鬼(せがき)供養と呼ばれていますが、あの世の六道である地獄、餓鬼(がき)、畜生、修羅(しゅら)、人、天の中で、餓鬼道に落ちている亡者に食を施す行事です。餓鬼道は食物を食べようとしても、炎となって食べる事が出来ませんし、水も飲む瞬間に蒸発して飲むことが出来ません。この様に飢えの苦しみから逃れる事が出来ない世界です。お釈迦様の十大弟子の1人である目連上人(もくれんしょうにん)が餓鬼道に落ちた母を救った話は有名です。聖法院の施食会は餓鬼道に落ちた亡者を助けるだけでなく、先祖の霊と共に有縁無縁(うえんむえん)の霊にも施しを行います。なぜ有縁無縁への施しが必要なのか?先祖がお世話になった人達もいますし、もしかしたら自分自身も輪廻する間に餓鬼や無縁の仏になる場合もあるからです。例えば献血をしておけば自分が必要な時に輸血してもらいやすい様なものです。また私達は生命保持の為に様々な生命を犠牲にしています。それらに対しての恩返しの一部となります。ご先祖様はもちろん喜ばれますが、自分達の守護霊もこの行事を大切にしています。施食会は『情けは人の為ならず、巡り巡りて吾が身の為に』の言葉がピッタリです。
あの世へ帰ったらご神仏に、『あなたの人生は幸せでしたか?』と聞かれますが、ある方の供養をした時に、「あまり自分は幸せとは感じなかった。」と答えました。その方は曹洞宗なので、お釈迦様がお聞きになられたそうです。『なるほど、幸せと感じなかったのは、誰と比べて幸せと感じなかったのですか?』とお尋ねになりました。「何となく全般を見て幸せではないなー、と感じるだけです。」とはっきりした答えを出さずにいると、お釈迦様は『そちが幸せと感じる人を見て、その人の不幸も全て知った上で、尚かつ自分の方が不幸だと思ったのですか?』とお尋ねになりました。もちろん他人の不幸なんて隅から隅まで絶対に分かりません。お釈迦様の質問と同時にその御先祖様は悟り、「私は今まで幸せに見えた他人の上辺しか見ていませんでした。その人の苦しみは分かっていないのに、その人と比べて自分の方が不幸だと思い、お釈迦様の前で幸せを感じないと言ってしまった自分を恥じます。」と言いました。お釈迦様は、『自分と他人の幸せを比べる事は出来ません。比べて良いのは自分自身の過去だけである。』とおっしゃいました。
別の御先祖様は阿弥陀様に『幸せでしたか?』と聞かれた時に、「幸せではありませんでした。」と答えました。阿弥陀様が『それはおかしい、幸も不幸も全てどの人間にも平等に与えている。もし他人と比べて不幸に感じたのならば、自分の考え方の間違いか、他人の見方の間違いか、いずれかであり、幸せを幸せと感じない不幸者である。』とおっしゃいました。阿弥陀様は、『人それぞれに前世からの因縁や過去の言動によって、幸せの度合いも不幸の度合いも平等に決められている。もし自分が不幸だと感じたならば、それは自分自身に原因がある。例えば優秀な大学生と優秀な小学生のどちらが頭脳明晰か?を比べるのと同じである。比べる事が出来ない物事に対して他人と比べている。』とおっしゃいました。
要するに、お釈迦様も阿弥陀様も『幸、不幸は他人と比べる事ではなく、自分自身の過去と比べなさい。しかも刹那(せつな)的な時間で比べる事は出来ない。今の苦しみは過去の自分の言動が修行として与えられている事をしっかりと理解しないと不平不満が起き、その不平不満が次の不幸を呼ぶ。』と説かれています。
合掌