仰げば尊し
3月は卒業式が多く行われます。昨年、寺尾聡さん主演の「仰げば尊し」の実話をドラマ化した番組を見ました。最近は、「螢の光」や「仰げば尊し」は我が師の恩と、師を尊敬する事を強制する歌詞がいけないとか、身を立て名を上げなどと、立身出世をあおるのが良くないと言う事で、歌わなくなったそうです。
広島のある公立高校の校長先生が、三十年間「仰げば尊し」を歌っていなかったので、どうしても生徒に歌って貰いたいと職員会議を開いたのですが、他の先生は反対でした。しかし校長先生は、「我が師の恩とは教師だけを意味しているのではない。私は教育の現場に何十年も携わっていますが、自分が生徒に教えて貰った事が物凄く多い。親子でも子供に教えて貰う親は多いはずだ。だからお互いが師になるのではないですか?」と他の先生を説得した結果、「螢の光」と「仰げば尊し」を歌う事になりました。生徒にインタビューしたところ、「こんな感動した卒業式は初めてです。あんなに気持ちの良い詩を聞いた事はないし、こんなに良い歌が日本にはあるのに、どうして歌わないのでしょう。」と言う意見がとても多かったそうです。
そして今の学校は平等を唱える余り、学級委員も無いそうですが、私達の頃は学級委員の生徒に憧れて、もうちょっと頑張ればなれるのではないかと、目標を持ってやっていました。今の子供はそんな目標が無いのです。大人が自分勝手に考えてこれは悪い、あれは悪いと廃止している物事が多すぎる、と最近見直されているそうです。
私はその校長先生の事を御神仏にお話させて頂きました。『それはとても勇気がいった事だろう。それが真の勇気だ。』とおっしゃいました。今地球の自然は砂漠化されていますが、御神仏から見られると人間の心の方が砂漠化しているとおっしゃいます。その校長先生のお話を『カサカサした人間の心に、水を与えた様な物だ。』と説かれました。
私達大人が他人の子供だから放っておこうときちんと教育をしなかった結果が、道徳心の向上の妨げになっているのでは無いかとさえ思います。日本に昔から伝わった良い風習や習慣を、私達が残して行く事、御神仏は『まず信仰を心の糧として残すべきではないか。』と説かれました。
当院の主旨に、神様を敬い先祖供養をする事があります。最近神棚の無い家が段々と多くなっているそうです。昔は神棚と仏壇は家にあるのが当たり前で、それも家の中で一番良い位置に置かれていました。今一番良い位置にあるのはテレビです。「テレビがあるから神棚を置く所が無いので、箪笥の上でも良いですか?」と質問されます。御神仏が見られて、「この家屋では箪笥の上でも仕方がない。」とおっしゃる家もまれに有りますが、本来は、テレビの場所を移動してでも、神棚を明るい一番良い場所へ置くべきです。
私達が人間として生まれて来て、最低限度残すべき物事は信仰の心です。神を敬い、先祖を正しく供養する事によって子孫が繁栄します。そして自分の子供や親戚、知人、一人でも多くの人にそれを伝えて行き、皆の責任でこの世界を良くしようと思えば、子供に「御神仏は居られるんだよ。御先祖様がいつも見ているよ。」と言う事を教えて行かなければいけません。
今は先生も生徒も友達感覚で、目上の人に対しての尊敬の念があまりにも少なくなっています。その結果社会人になった時に上司からちょっと注意をされると、「もうやめます。」とすぐ言うのです。辞めてどうするのかと聞くと、「アルバイトして食べて行けたら良い。」と言います。そんな考えの子供達が社会を作って行ったら、自然の砂漠化どころではありません。心の砂漠化の方を見直すべきです。人間は誰かを尊敬しなければ自分を律する事が出来ません。自分の親を尊敬していますか?と聞いた時に「いいえ」と答える人が多くなって来ました。すると畏敬の念とは神様や御先祖様しかないのです。目に見えなくても御神仏や御先祖様はしっかりと皆を見守って居られる、と言う事を教えて行くべきだと思います。
合掌