執着心

 今月はお彼岸月です。彼岸は彼の岸と書き、あの世での極楽浄土を表します。清浄な世界、理想世界と言われています。それと比べてこちらの世界は此岸(しがん)と言い、人間の世界で、けがれた世界、よごれた世界を意味し、此岸から彼岸に渡ることを願い、ご先祖様に良い彼岸に渡って頂こうという気持ちでお彼岸は、春と秋にあります。もちろん私達は清浄な心を持ちながら、彼岸の世界に渡りたいと願っているのですが、清浄な心とは、自分ではきれいな心をもっているつもりでも、ご神仏から見られると、なかなかきれいな心にはなれていないそうです。心が汚れているから、何度もこの世に生まれて来るのです。清浄な心を持つには、どうすれば良いか?一番簡単なのは執着心を持たないことです。自分自身では執着心は持っていないつもりですが、多くの方たちは小さな事でも執着しているのです。例えば田舎からりんごやみかんを送って来て、お隣や友達にお裾分けをしようと思った時に、おいしそうなみかんやりんごを選り分け、それを自分の所に残しておいて、その他をあげる方と、逆に良いものを選り分けてそれを他人にあげる。ところがご神仏から見られると、どちらも執着心です。何故でしょう?品物を選り分けいるその心はランダムに分けると、もし腐っているものが入っていた場合、あの人は腐っていたのをくれたわ、と思われるのが嫌なのです。それは自己が可愛いからなのです。それも自己の執着につながります。もちろん単に良いものを食べてもらいたいという素直な心の方もいます。執着心を持たないことは、人間的に大変難しいことです。心はきれいでもなければ汚くもない。神様からの借り物で「空(くう)」なものである。

 豊臣秀吉の生まれは貧乏で、子供のころはいじめられていたそうです。秀吉が天下を取った時に、ぜいたくを極めた訳です。食事を運んで来てくれて、すぐに食べても、年がら年中程よい温かさなのです。こんな料理を出す料理人は素晴らしい。自分の所に運んで来るまで、道中相当長いのに、その距離も考慮して温度を考えていると、いつもこの料理人を誉めていました。ある時あまりにも不思議なので作る所を見に行ったそうです。すると料理人は自分で口をつけて飲んでいました。それを見た途端に秀吉は、激怒しました。天下の豊臣秀吉が、どうして一番下の料理人が口をつけたものと同じものを飲むのだと、今まで誉めていた料理人に烈火のごとく怒ったそうです。秀吉にすると、自分の口や淀君の口はきれいで、その料理人の口は汚いと思っているのでした。しかしそれはご神仏から見られると、きれいでもなく、汚くもない、全ては「空」なのです。見なかったら知らない訳ですが、そのことを見た為に、そのおつゆを飲むたびに、またそうしているのではないかとずっと疑心暗鬼になって、おつゆが飲めなくなり、苦につながる訳です。この思いは誰が作るのでもなく、自分自身が作っているのです。その感情が執着心となり、間違った考えを起してしまうのです。この様に執着心は自分が作り、自分を苦しめます。小さな事柄にこだわらない生き方を致しましょう。それが自分の苦しみを作らない方法です。

合掌