平等
「信仰を持つ人はその人の心が弱くて、神様に頼らなければ過ごせないから手を合わせるのであって、私は自分で全て決断出来るから神様を頼らなくても良いし、信仰なんてしなくても良い」と言われる方はたくさんおられます。それに対して私は疑問を感じたので、護摩を焚きながらお不動様に質問をさせていただきました。私は自分の心が弱いと思ったことは全く無くても、信仰の道に入っているので、「本当に心の弱い人間が信仰に入るのでしょうか?ご神仏を頼りにし過ぎるのでしょうか?」とお尋ねしました。
お不動様は『左手が衆生の手、右手が神仏の手、この手と手を合わせて合掌出来ることが、神仏と合体して感謝できる形である。人間側が自分は信仰しない、手なんか合わせないと勝手に思っていることが多いが、神を表す右の手をその人間が使うことを神から許可されていない。人間は自分が選んでいるつもりだが、自分が信仰しないのではなく、その人間の心が素直に信仰をする心を持っていないので、神がその人間に信仰を認めていないので合掌が出来ないのだ』と説かれました。従って自分は心が弱くないから、神仏を頼らなくても良いと思っているのは間違いです。ご神仏の右手を貸して頂く許可が下りていないのです。許可を頂けない人は自分の人生は全て自分だけで物事は運んでいると勘違いしています。何のこだわりも無く、手を合わせられる私達は無上の幸せと喜びを感じて、感謝をしなければいけません。
先日あるお婆ちゃんの先祖供養をした時に、面白い光景を見ました。そのお婆ちゃんは「自分は一生懸命働いて来たのに人生あまり良い事は無かった。他人から見ると怠け者でも良い人生の人もいる。人間は何故こんなに不平等なのでしょうか?」と阿弥陀様の御付きの人にお尋ねしたところ、お答えを映像で見せて頂きました。白い帽子と白衣を着たお寿司屋さんの様な姿の男性が、四人並んでカウンターにいる人達におはぎを一つずつ出していきました。一番始めの人はおはぎを置いた途端にパクっと食べました。二番目の人は一つを確保しようと思い、二つ目を置いた途端に食べました。三番目の人はずっとおはぎを置くのを見ていて三つ貯まった時に、「もう少し貯めたいな。だけどじっと待っているのも嫌だから、外に出て用事をして来よう」と出て行くと、お婆ちゃんが重そうな荷物を持っていたので、「手伝いましょう」と言ってお婆ちゃんの家まで持って行ってあげました。お婆ちゃんは「有難うございました」と言って、おはぎを一つくれました。そのおはぎを持って帰り、貯まったおはぎの横に置きました。四番目の人は三つ貯まっては食べて、また三つ貯まっては食べると言う調子です。三番目の人はお婆ちゃんに貰ったおはぎは食べましたが、後のおはぎはどんどんと貯まっています。そこに乞食が通り掛かったので、三番目の人が、おはぎを二つあげました。乞食はとても喜びました。それを神様が見て居られて、三番目の人におはぎを二つくれました。そうすると、一番目の人は次々と置かれたおはぎを食べているので、おはぎは一つも貯まりません。二番目の人は一つだけ常に確保していますが、後は全部食べています。阿弥陀様の御付きの方はお婆ちゃんに、「これは何を表していますか?」と聞かれました。お婆ちゃんは「平等です」と答えました。白衣を着ている人は神様であり、おはぎは神様のお光であり功徳の量なのです。そうすると順番にくれているのだから、全ての人々に平等にくださっていると言うことです。結果、誰が悪いかと言うと、おはぎを食べている自分が悪いのです。全部食べてしまっている人は、大きな困難が起きた時に功徳が残っていないので、いざと言う時に使えません。その時、神様が「貸してあげましょう」とおっしゃったので「貸して下さい」と簡単に借りてしまいました。その借りた分が悪因縁になるのです。借りた分はいつ返せるかと言うと、人間として生まれている今しかありません。あの世へ行ったらお返しすることは出来ません。人間は何をしにこの世に生まれて来たのか?神様に借りたものを返す為と自分の悪因縁を減らす為、そして功徳を積む為です。無駄に使う時間はありません。
合掌