幸せをつかむ
人間の心は静かな湖に例えられる。人々は神仏の智慧と、悟りに至る真の理性に満たされた心でこの世に送られる。赤子の心の目で見ると、この世は油でギラギラしている。油は我欲と煩悩である。それはどんな小さな火でも、すぐ大火となり燃え上がる。しかもその火は神仏の智慧と理性を持ってもなかなか鎮火させることは難しい。この大火を消すにはどの様な方法があるのか、それは化学薬品でしか消すことは出来ない。その化学薬品に相当するものが信仰である。人間が信仰に目覚める年齢は、勿論一刻でも早い方が良い。遅れた時間だけ解脱への道は厳しく、煩悩の火が湖いっぱいに広がり、それを消火するのに時間がかかる。煩悩が心に充満すると、幸せが入り込む隙間も無くなる。時が経つと幸せが落ち、それにも気づかず、自分で幸せを踏んづけてしまう。落ちた直後に気付き拾い上げる者は良いが、知らぬまま踏み歩き、その上を又他人が何人も踏みつけて行く。そのうち気が付き後ろを振り返った時は、もうすでに自分の幸せは形のないものに変わっている。しかしどんなに遅くとも、気づいた時に素早く後戻りをして拾わねば次の幸せは一生やってこない。気付くのが遅いほど、後戻りをする時間と、幸せをもとの形に戻す時間を要する。人間はどんなに頭が良くても我欲と煩悩はあり、このことに自分が愚かだと卑下することも悲しむこともない。いかに早く気づき幸せを自分に引き戻せるかの差である。信仰は心の医者である。自分は心のどの部分を傷めているのかを、自分自身に問いかけることが大切である。孤独で寂しいのか、夫婦和合していないのか、子供の事か、他人との人間関係か、金銭的なことなのか、原因が分かればそれから逃げず、どんどん見つめ掘り下げていく。何故その原因で悩んでいるのか、原因はどこから来ているのか、それを正しく見つめていくと、どんな悩みも自分自身の心から全てが発している事に気付く。それらを正しく誘導していくのが信仰である。説法を繰り返し聞き体得し、反省し懺悔を繰り返すことによって必ず幸せを早くつかむ事が出来る。
合掌