心の富
中国の明(みん)の時代に「笑府(しょうふ)」と言う本がありました。道徳的な事や歴史上の人物の事等、実際にあった事ばかりを書いているのですが、日本では江戸時代に人気となり、平賀源内が翻訳をしていました。
その本の中のお話の一つ、ある老人に3人の息子が居りました。老人が臨終間近になった時、3人の息子を枕元に呼び寄せ、「お前達はこの人生で何を目標にしているのか、一人ずつ聞かせてくれ。」と尋ねました。長男は「百万と言うお金を積みたい。」と言いました。次男は「政治家になって、大臣になりたい。」と答えました。三男は「大きなしっかり見える目玉が欲しい。」と言いました。それはどう言うことかと尋ねると、「兄さん達の富や名声が何処まで続くのかをこの目でしっかりと見てから、人生を終えたい。」と言います。
その老人は勾践(こうせん)と言う方で、政治の力もあり人望も厚く財力も名誉もあった方でした。しかし、勾践はあまりにも人生が上手く行き過ぎて、人の意見を聞かない人になっていました。勾践は会稽山(かいけいさん)で夫差(ふさ)との戦いに負けてしまい、財力も政治力も全て失ってしまいました。現代の国語辞典にもこの事が『会稽の恥』として載っています。勾践は三男の話をじっと聞き、なるほどと思いました。「自分の得た物で、無くならない物は唯一つだけだ。それは心の富である。無くならないのは真の知恵以外に何も無い。」と言い、三男に先祖の供養や、家督を継ぐ様に頼んだのでした。勾践の間違いは、色々な事が成功した時にこれは全部自分の力で誰の力でもない、とご神仏にもご先祖様にも一切手を合わせた事が無いし、感謝もした事がありませんでした。その結果、全てを失う事になったのです。
私は33と言う数字にとても縁があるなぁと感じます。母が33歳の時、私を生み、私は33歳で信仰に目覚め、先日、住職になって33年目に当り、醍醐寺から功労賞を頂きました。以前に大黒天様から、『現代の人々は苦労や努力と言う道のりを飛び越えて、楽して財を成したいと思っている。それがあせりとなり、余計に泥沼に落ち込み、あがく結果となる。哀れとしか言い様もなく、神仏も力の貸し様がない。人生で成功を得たいならば、まず何を差し置いても己の心の富を得よ。金銭や物品はその後に自然について来るものである。目に見える物や金だけに執着している人々は、心の富も得る事は出来ない。』と説かれました。人生での成功を考えた時、一見遠回りの様ですが、これが一番成功の近道です。
合掌