様々なご縁
人間は思い(念)が無ければ言葉が声に出ません。母親が赤ちゃんをあやす時に、「よしよし」や「いい子だね」と言いますが、愛情が無ければ言葉は出て来ません。世の中には二枚舌の方も居られますが、そう言う方は念と声が一体になっていないのです。人間が自分を向上させたいとか、もっと目覚めさせたいと思う時は、苦労や悲しみを含め色々な失敗を経験します。しかし、その色々なマイナスが自分の肥料になり、そのマイナスにも感謝できる様になれば悟りの第一歩となります。信仰と言う高い塀は一気によじ登ろうとしてはいけません。途中で息切れをしたりして、力尽きて落ちてしまいます。落ちるのはとても早いのです。それよりも塀にそって一歩ずつ前へ進むといつか必ず入口が見えて来て、そこで救って頂けます。あるいは上から紐が降りて来たり塀の中から「こっちだよ」と声が掛かったりします。塀に背を向けてはいけません。信仰に背いてはいけないと言うことです。道元さんの言葉で『仏道を習うは自己を習うなり、自己を習うと言うは自己を忘れるなり』とありますが、これは御仏様の道に入ろうと思えば、まず自分を見つめなさい。自分を見つめるとは我欲を忘れることだということです。
御縁と言うのはとても大切で、昔中国の周の国に文王と言う王様がいました。ある日家来を伴って狩りに出ようと思い、占い師に獲物がたくさん捕れるかどうか、占って貰いました。占い師に「今日は凄い獲物が捕れますよ」と言われ、王様は喜んで出掛けました。一生懸命獲物を探しましたが、その日は鳥一羽捕ることが出来ませんでした。王様は、「大きな獲物が捕れると言っていたのに、何も捕れなかったではないか」と不満を言いながら帰っていると、湖のほとりで老人に出会いました。その老人は釣り糸を垂れているのですが、先を見ると針が付いていません。老人は呂尚(ろしょう)と言う名で、釣りをするふりをして考え事をしていたのです。王様は呂尚と色々な話をするうちに、良い考えを持っている人だと思い、「是非我が国の力になってほしい」とお願いしてお城へ来てもらうことになりました。呂尚は優れた政治的手腕を持ち、後々まで文王を助け太公望と言われました。占い師が「凄い獲物がある」と言ったのは、呂尚との御縁があると言っていたのです。縁をしっかりと結んでおかないと幸せは来ません。「夫婦になるということは、二千年待って夫婦になったのだから、その御縁をとても大事にしなければいけない。そして御神仏や信仰に御縁を持つにはどれ位かかるかと言うと、百千万劫かかっても会い難し」とある本に書かれていました。一劫と言うのが一抱え位ある岩を年に一度、天女が舞い降りて来て衣の袖で岩をすっと撫でて帰られ、その摩擦でその岩が無くなるのにかかる年月が一劫です。百千万劫と言うと、凄い年数で、それ程良い信仰には会い難いのです。良い仏縁を持ったら自分で切る事なく、一生懸命すがって行きなさいと言うことです。
信仰するにはどうしたら良いかと言うと、まず自己を見つめて自分の本質に会い、自分の持っている仏様に出会うことです。ところがいつも聖法院の御神仏が嘆いておられるのは、人間はある程度信仰すると自分の鬼に出会うのですが、その鬼に出会った時に「自分が悪いのではない」と信仰や人のせいにして、御縁を切ってしまう人が多いのです。しかしそれは自分の鬼と出会っているのです。普段はとても良い友人が、一緒に信仰を深めて行くうちにその人の本質が見えて来て、「この人はこんな人だったのか」と悪い所が見えて来たりします。それは段々と掘り下げていって、自分も相手を見る目が出来たし、その人の悪い所もどんどん出て行って、信仰が深くなっているからなのです。悪い所を出さないと自分の本質に目覚めないし、自分の仏様に会う事も出来ないのです。ですから人との縁も大切にし、仏縁も大切にして日々自分を見つめながら、更に正しい信仰をし、幸せの一路を辿って頂きたいと思います。
合掌