浄土泥棒
カトリックの方のお話で、「天国泥棒」と言う言葉があるそうです。死ぬ間際にあわてて洗礼を受ける人のことを言うそうです。新約聖書の中にマタイの福音書があり、その中に葡萄園の労働者の例え話があります。
葡萄園を経営している主人が毎日、市場へ通っていました。何故市場へ通うのかと言うと、そこには労働者が仕事を探して立っているからです。そこへ二時間置きぐらいに行き、「あなたを一万円で雇いましょう。」と交渉し、最後は夕方五時に行くのですが、葡萄園の就労時間は午後六時迄なので、朝一番から働いている人は午前七時から午後六時迄働き、一番遅く来た人は午後五時から午後六時の一時間だけ働きます。
そして仕事が終わると、主人が遅く来た人から順番に給料を一人一万円ずつ支払います。朝早くから来た人は、「あの人が一万円なら自分には二、三万円はあるだろう。」と期待していると、自分の番が来た時に一万円しか貰えなかったので、「自分は朝七時から働いていて、あの人はたった一時間しか働いていないのに、どうして同じ金額なのか?」と主人に聞きました。それに対して「あの者達は朝の六時頃から夕方の五時迄市場にずっと立っていた。今日仕事が無かったら、家族が待っているのにパンも買えない、支払いも出来ない、と一日中不安だったであろう。それに比べあなたは朝七時には、今日は一万円を貰って家に帰れると思い、ゆったりとした気持ちで一日を過ごす事が出来たと思う。どちらが幸せだと思いますか?」と言いました。
このお話はキリストが葡萄園の主人で、信仰は労働に例えられていて、早く来た人が損で、天国泥棒は幸せだと思いますか?と言う例え話なのです。
私は天国泥棒があるのなら、浄土泥棒もあるのではないかと思ったのです。浄土宗と浄土真宗は、「南無阿弥陀仏を唱えたら、極楽浄土へ行けますよ。」と説いていますが、浄土と言うのは仏の国と言う意味で、大日如来様は、密厳浄土(みつごんじょうど)お釈迦様は、霊山浄土(りょうざんじょうど)、阿弥陀様は、極楽浄土と言います。キリスト教の人は必ず生きている間に洗礼を受けなければなりませんが、仏教は死んでから戒名を頂くので、天国泥棒よりももっと泥棒なのではないかとも思います。
阿弥陀様が実際に浄土泥棒でも良いですよ、と言って居られるのかな?と疑問に思ったので、お不動様にお聞きすると、日本地図全体が写り、次に北海道だけが大きく写し出されてそこに飛行機と電車が写し出されました。ただそれだけでお答えは何も頂けませんでした。大阪から北海道へ行こうと思うと、飛行機なら一時間位で行けます。新幹線や車で行くと、もっと時間が掛かりますが、途中色々な景色を見る事が出来ます。飛行機は雲が見えるだけですし、飛行場からまた電車やバスで中心部まで行かなければいけません。しかし着いた所は同じ北海道なのです。皆同じ浄土へ行けますよ、と阿弥陀様が言われたのは確かだが、浄土の何処へ行けるのかは分かりません。浄土は広いのです。仏様が作られた所が浄土と言われているので、地獄に近い場所も浄土に入っているのです。
「泥棒でも構わないので、とにかく極楽浄土へ行こうとする人の方が良い。泥棒になるのは嫌だから、私はもう浄土へは行きません。私が死んだら葬式もいらないし、遺骨もどこかへ撒いて下さい。などと言う人は泥棒にもなれません。泥棒でも良いから、とにかく浄土へ向かって来る人の方が良い。」と言う阿弥陀様のお考えで、「南無阿弥陀仏」を一回でも唱えれば浄土へ行けますよ、と説かれているのです。
しかしハッキリしている事は、あまり泥棒呼ばわりされる様な信仰はしない方が良いと思います。出来るだけ早い時期にしっかりと信仰した方が安心感も持つことが出来、病気になった時やあの世へ行く時にも「南無尊帝そわか」を唱えることで安らぎを得ることが出来ます。早くから信仰をしたからしんどい、というのではなく、同じ行くなら極楽浄土の中でも良い場所に行けるように早めに良い景色を見ながら浄土へ向かって行きましょう。
合掌