茗荷
お釈迦様の弟子で周利槃特(シュリハンドク)と言う方が居られました。その人は真面目ですが、何も覚えられない人で、数分経つと忘れてしまいます。お釈迦様は困られて、「何も考えなくて良いから、庭だけを綺麗にしなさい」と庭の掃除だけを命じられました。シュリハンドクと呼んでも自分の名前も忘れていて、振り向きもせずにただひたすら庭を掃いていました。究極の物忘れとは自己を忘れることで、他人と自分との区別がない状態です。他人が苦しい思いをしていると、自分も同じ様に苦しみ、他人が喜ぶと同じ様に喜べる。彼と同時期に入った弟子達は、お経も読めない彼のことを、「あいつは世界で一番馬鹿じゃないか。あんなに物忘れの酷いやつは見たことが無い」と陰口を叩きました。しかし彼は陰口を言われてもすぐに忘れてしまうので、何とも感じません。弟子達はお釈迦様の説法を一日に何回も聞くのですが、それをずっと聞いているうちに、自分達の方が愚かなことに気付きました。お釈迦様は、「我を無くせ、無我になれ。執着を無くせ」と何度も説いておられました。シュリハンドクには自我がない、だから一番お釈迦様の教えに近く、それを実行しているのは彼一人しかいないのでは無いか。我々は我を無くせと言われても、どうしてもそれを無くすことが出来ない。彼は最高の弟子なのではないか、と気付いたのです。それからは彼の陰口を叩くものはいなくなりました。その後、彼が亡くなって、彼のお墓に一番に生えたのが茗荷(みょうが)でした。そこから茗荷を食べると物忘れが酷くなると伝えられているようです。
お釈迦様は『人間はありとあらゆる物を自分の物と他人の物に分けるから苦しみが始まる』と説かれました。人間は勝手なもので他人の物が自分の物になった時は、凄く喜ぶのに失った人の痛みは分からないのです。
ある時お釈迦様が若い夫婦だけを森に集めて説法しました。ほとんどが夫婦でしたが、一組だけ婚約者を連れて来ました。二人は後ろの方で聞いており、前方の人が自分の財布が無いことに気付き、皆の顔を見渡すとカップルの彼女だけがいませんでした。「彼女が犯人に違い無い、逃げたのだ」と言うことになり、お釈迦様の説法の途中でガヤガヤと騒ぎだし、彼女を皆で探すことになりました。それをお釈迦様がじっと見ておられて、『ちょっと待ちなさい、皆何をしているのだ。財布を探してあげることは人間的に考えると親切な行為かもしれないが、まことに愚かである。今は何をする時間なのか。彼女を追い掛けて財布を取ったかどうか問いつめて何か役に立ちますか?今あなた達がなすべきことは、心の中の大事な物を探すべき時間です。財布を探す時間ではありません。もちろんお金は大事な物ですが、もっと大事な物に執着しなさい』とおっしゃいました。
例えばお寺に来て説法を聞くよりも、遊びに行く方が面白いと思いますが、遊んで楽しいのはその刹那だけだ、とお釈迦様は説かれます。『刹那だけの為に大事な時間を逃してしまうと、本当の心の大切さ、心の宝物をあの世へ持って行くことが出来ないであろう。刹那刹那の楽しみや、苦しみに惑わされてはいけない。人に話す行為は自分の耳でも聞く事になり、間違いがないかしっかりと話しながら自分の耳で聞き、自分の心で再度聞くことになるのです。十回同じ事を皆に話すから、皆も十回同じ様に違う人達に話しなさい。更にその人が十回違う人に話すと、世界中の人々が心の宝物を得ることになる』と説かれました。
合掌