茶道と信仰
大祭の時にお抹茶を頂きますが、時々あるお話を思い出します。天正3年、京都の妙覚寺で千利休さんがお茶会を催されました。そのお客の一人が、千利休に「ちょっとお尋ねしたい」と質問されたのです。「冬の炉と夏の風炉、夏のお茶と冬のお茶、どのようにすれば良いものが点てられますか?その極意をぜひ教えて頂きたい」と聞いたのです。千利休は『夏はいかにも涼しげに、冬はいかにも暖かくなるように、炭は湯が沸くように、お茶の御ふく加減が良いように、その他に秘儀は一切なく候』とお答えになったのです。すると「そんな事はお茶を習う前から解っている。それ以外にお茶を立派に点てるにはどうすれば良いか?と聞いているのだ。その極意を聞いているのに、炭は湯が沸くようにとか、そのような事を聞いているのとは違う」と言ったのです。
すると『ほー、私が言った事を貴方はわかっているのですか?」「わかっています。そのような事はお茶を習う前からわかっています」と言ったのです。『家に帰られて、私が言った通りのお茶を点てられたら、私は今すぐこの地位を降りて、あなたの弟子となって生涯あなたに教わりましょう』と千利休が言われました。そのお客はある程度お茶を習っていたので、そこではっと気付かれたのです。さて何に気付いたのでしょうか?お茶の作法は色々儀式がございます。炭点前、袱紗の裁き方、茶筅や茶杓など道具の扱い方、『儀式を一通り知った上で、そのような事ばかりに気を取られていたのでは、一生良いお茶を点てて、お客に味わって頂く事は出来ないだろう。茶道の一番大事な事は、その心だ、お茶をたしなむ心が欠けていると、いかに表向き袱紗をきれいに裁いても、いくら炭点前が良くても、それは美味しさにはつながらない』と言われたのです。
私は信仰も全く同じだなと思いました。信仰歴も長いし、説法もよく聞いている。念珠の持ち方も御真言も正しく知っている。仏像についてもよく知っている人がいます。するとその方が信仰の基本の全てを知っているか、と言うとそうではありません。むしろ何も知らないけれどもただ毎日拝むだけです、という方が神様から見られたら、信仰の基本がなっているのかもしれません。勿論儀式や御真言、正しい礼拝の仕方は知っている方が良いです。しかし一番大切なのは信じる心です。例え災いがあったとしても、人生良い事ばかりではなく、悪い事も乗り越えて信じる心が、疑いの心にぶれない事が、信仰の基本です。
合掌